かつて司馬懿と共に遼東半島を征服し、高句麗討伐まで行った毌丘倹。すでに功成り名を挙げた魏の名将が犯した失策とは?

曹丕のお友達人事? 毌丘倹の実績
毌丘倹の父である毌丘興が反乱討伐を終え、中央に戻った頃…。

お前の親父は俺に逆らわず、よく頑張った。
息子の曹叡の側近になれ!

はい。がんばるっす!!
その後、曹叡が即位すると尚書郎という出世コースに就く。
だが、曹叡の宮殿建設を批判し…。

お主とは考えが合わん。
地方に行って、よく考えてみろ

マジすか! でも、自分は言いたいことは言うっす!!
中央から遠ざけられ、荊州刺史になる。
その後、幽州刺史となった際に、公孫淵討伐を試みるが失敗…。

魏軍は口ほどにもない!!

やれやれ、坊やの尻ぬぐいはごめんだな
結局、公孫淵討伐の功は司馬懿に取られてしまう。

実績を作るまで中央には帰ってくるな。
何かしら見えてくるものもあろう
その後、朝鮮半島の高句麗を滅亡寸前に追い込む。

自分だって、やればできるっす!
呉との最前線に戻ってきたところ、呉の諸葛恪の攻撃を受けたが、鎮東将軍としてなんとか退けた。

やばかったっす!! 魏建国以来最大の危機でした!

援軍遅くなってすまんかった。
なかなか許可がでなくてな

司馬孚殿はわるくないっす!
悪いのは司馬師っす

相変わらず口が悪いのぉ
皇帝廃位の影響
李豊のクーデター未遂や司馬昭暗殺未遂を受け、嘉平5年(253)9月、皇太后の命令として曹芳を皇帝から引きずり下ろした。

新皇帝は曹據様がよかった。子供は空気が読めないからな…

皇太后が、ジジイは嫌だっていうなら仕方ないじゃん
その後、王粛が皇帝に決まった曹髦を洛陽まで連れて戻ってきたが…。

東南にオーロラが出ました。反乱の気配があります。

東南で反乱を起こしそうなやつといえば…。
揚州刺史の文欽か!
文欽は同郷のよしみで旧悪をもみ消してもらった曹爽派であり、呉との戦いの論功行賞など現状に不満を持っていた。

毌丘倹殿。皇帝廃位まで行われ、次に狙われるのは我ら。
もう先に仕掛けるべきでは?

待て! 自分に考えがあるっす
そこで毌丘倹は11の罪を記した司馬師弾劾の文書を上表。宰相を弟の司馬昭にすることを要求した。

父上や叔父上、昭まで誉められてるのに、俺だけ文句言われるのは納得いかないな

嫌われ者の文欽がいては、こんなもの誰も相手にしません。
そんなことより、淮南の軍勢の家族が洛陽におります

よし、彼らには悪いが人質になってもらおう。
昭は軍を率いて淮南に行ってくれ

了解!
毌丘倹の二の轍を踏む?

お待ちください。毌丘倹は腐っても名将。
司馬師様がいかなければ、鎮圧は難しいでしょう

けど、兄上は目の手術が終わったばかり。せめて叔父上に…。

私も同じ考えです。司馬孚様ではお優しすぎます

いや、わかった。昭、後はたのむ
かくして司馬師は淮南に進軍した。
その間、荊州刺史の王基は食料基地の南頓を占領。予州の諸葛誕が敵の本拠地である寿春を攻撃。
反撃すべく文欽は楽嘉まで向かったが、すでに司馬師の軍勢が待っていた。

すでに司馬師自ら大軍を率いてきているとは…。

出撃しよう、父上。勝負はこれからだ!!

一時的に勝っても全滅してしまう!!
逃げるぞ!

じゃあ、俺が時間を稼ぐ!
命知らずたちよ! 我に続け!
文欽の子文鴦はわずかな手勢で司馬師本陣を強襲。

落ち着け、敵は少ない!
文鴦は本陣を荒らし、撤退。
しかし、この混乱で司馬師の傷が悪化してしまう。

うう、マジで痛え。昭を呼んでおいてくれ
布をかみながら、司馬師は毌丘倹の本陣である項へ進軍を続けた。

司馬師の悪を叫べば仲間が増えてくると思ったのに…。こんなはずじゃ

文欽がいなければ、仲間になってもよかったけど…
その後、逃げる際に首をとられ死亡。

せめて、まともに戦って死にたかったっす…
なお、文欽親子は呉に亡命成功した。

まだまだ暴れたりないぜ!!
一方、毌丘倹の死を聞き、司馬師の容態が急変した。

兄さん、死なないで!? 今死なれたら困るよ!

残念ながらダメだ。受け継いだものはお前に託す。すまない
魏の大将軍にして司馬家一の策士、司馬師死亡。のちに諡は景帝となる。

毌丘倹は自分が呼びかければ、ひっくり返せると思ったんだろうね

公孫淵討伐の時もそうですが、読みが甘い気がします

鍾会。君の欲も、君の器量を上回る。自重しなさい
傅嘏も同じ年に死亡した。
つづく。

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