邪馬台国の使者が魏に来朝したのが、『三国志』魏書東夷伝倭人条(通称『魏志倭人伝』)によると景初二年(238)か、景初三年(239)といわれている。仮に景初二年である場合、何が起きたか?
邪馬台国はどこ?
景初二年、公孫淵を包囲中の司馬仲達の元に、帯方郡を制圧した劉夏が珍客を連れてきた。

邪馬台国の使者だと?
聞いたことがないな。どこにある国だ

それがよくわからないのです

では考えてみよう。特徴を教えてくれ

彼らは体じゅうにタトゥーを彫っています

ならば、それは倭人だ。奴らは海に潜った時、サメに狙われないように体じゅうにタトゥーをするからな

しかし、海の向こうからきたというんです。

では、倭人ではないな。奴らは中国の南方に住んでる民族だからな。
倭人は元々中国南方の百越と呼ばれる諸民族のひとつでした。
春秋時代の呉が滅んだ際に、その周辺に分散したと言われています。

ただ、彼らは玄関で履物を脱ぐのです。

じゃあ、倭人だ。奴らは通常はだしで、履物になれていないので室内では脱いでしまうのだ。倭人に間違いない。

けれども、彼らは卑弥呼という女性を王として、小さな国々がまとまっているそうです。

では、倭人ではないな。倭人は長い間、国同士争っているらしいからな。女王というのも聞いたことがない

それが彼らは自分たちは倭人だと言っているのです

じゃあ、倭人じゃないか。私が海の向こうに倭人はいないと言ったとき、お前はどう思っていたんだ。
仲達、倭人と遭遇する
かくして、司馬懿は邪馬台国の使者、難升米(なしめ)と会うこととなった。

はじめまして。あなたが燕王公孫淵ですか?

私は魏の三公、司馬懿。公孫淵はまもなく滅ぶ。私が話を聞こう

王に即位されたというので。
聖王のみが聴けるという楽経をお返しにあがりました

楽経だと? 失われた六経のひとつか?
楽経は孔子が残したといわれるありがたい音楽の教科書(詳細不明)。
始皇帝の焚書坑儒の際になくなり、漢代には五経となってしまった。やはり、音楽は文章だけでは伝えられなかったのだろうか。

春秋の昔、呉の国の遺民から伝わったものです

そうか、海の向こうだから始皇帝の手も逃れたか…

そのため、生口(せいこう)も連れて参りました。

生口? 歌い手のことか?

生口はいくらいてもいいですからね。
生口も詳細不明のひとつ。奴隷とされてはいるが…。
邪馬台国VS曹叡の結果は?
考えた仲達は邪馬台国の使者を洛陽にいる曹叡の元へ送った。
はるか東方からの朝貢に、曹叡は喜んだらしいが…。

なんだと、陛下がご危篤だと?!

まさかあの倭人の楽経では…
聖王のみが聴ける音楽とは、聖なる王さま以外が聴くと死んでしまう恐怖の音楽と言われていたのだ!

馬鹿をいうな。あれは私も聞いたがこの通り生きているではないか

確かに…。
思うんですが、あれは倭人ではなく、形天だったのでは


どう見たって違う! わかるだろ
なぜ曹叡が死んだのか、なぜ司馬懿は生きているのか、本当に倭人は楽経を伝えにきたのか。

信じるか信じないかはあなた次第!
つづく。
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