諸葛亮孔明といえば、三国志の伝説的な軍師です。
彼が考案したと言われるものに、八陣図とよばれる用兵術があります。

諸葛亮の八陣図こそが、弱小の蜀の国を、強国の魏の国と対等に戦わせた、最強の用兵術といわれました

うわ、八陣図とか超嘘くさい…。本当にあったの?

私、馬隆が、八陣図のひとつ車蒙陣を使った戦を話しましょう!
謎の多い八陣図を、実際に記録に残る形で使用したのが、今回紹介する馬隆です。

馬隆と令狐愚~狐の恩返し
馬隆(字は孝興)は兗州東平国の出身。生年は230年頃と思われます。
嘉平3年(251年)元の兗州刺史(兗州の長官)令狐愚が反乱に関与したとして、墓を暴かれて遺体を晒される刑を受けます。
罪人となった令狐愚の遺体を引き取ろうとするものは、誰もいませんでした(反乱に関与してたと疑われたくないため)。

誰かオイラを埋め戻してくれよ!

義を見てせざるは勇なきなり! 元の兗州の長を放置はできない
名誉と節義を重んじた馬隆は、過去に令狐愚の食客だったと偽り、令狐愚の遺体を引き取って、棺に入れて埋葬しました。

この恩は一生忘れないよ!

いや、もう死んでるじゃん
その後、馬隆は令狐愚の墓に松や柏を植え、三年間喪に服しました。

わざわざ、我が族弟の令狐浚を埋葬してくださり、ありがとうございます

どちら様ですか?

わたくし、令狐浚の遠戚にあたるものです。族弟の恩人である馬隆殿に恩返しがしたいので、我らの国にお越しください

よくわからないけどOK!
令狐愚の喪が明けた後、馬隆は約20年兗州で武猛従事として働きます。
ちなみに令狐愚は異民族の多い并州の出身。さらに西域の入り口、涼州敦煌の街は、令狐一族が仕切っていました。
後の馬隆の活躍を鑑みると、兗州での20年の間に、馬隆は并州や涼州にも行っていたのではないかと推測します。

でないと、このエピソード、意味わかんないしね
蜀の滅亡と八陣図の行方
景元4年(263年)魏の国は、蜀の国を滅ぼします。
この時、司馬昭の命令で陳勰という人が、諸葛亮の八陣図を回収しました。

諸葛亮の八陣図と我が20万の兵、それに俺の知略が加われば、何物にも負けない!

まずい…。八陣図を処分しなきゃ
八陣図の悪用を恐れた陳勰は、すべて暗記した後、兵書をすべて破棄しました。

もったいない! なんで八陣図を捨てるんだよ!

晋国の近衛軍だけに口伝で伝えることにしたのです。中二病な人間の手に渡したくありませんから
魏から晋になって泰始5年(269年)、推挙されて馬隆は洛陽で働くことになります。

そろそろ本気で働かせていただきます!

才能、人格申し分ない! 我が近衛軍に加えるぞ!
馬隆は司馬督に任命され、皇帝司馬炎の宿衛軍(近衛兵)に配置されました。
おそらく宿衛軍の頃、馬隆は陳勰より八陣図を教わったようです。

陳勰先生、八陣図は難しすぎる!

いずれきっと役に立つ。頑張って覚えたまえ!
陳勰が戦場にたつことはありませんでしたが、陳勰が司馬炎の左右にあった行幸の車列は、整然として厳粛であったそうです。
禿髪樹機能の乱
泰始5年(270年)、蜀の滅亡や晋の失政をうけて、禿髪樹機能という鮮卑族の男が反乱を起こします。

禿髪樹機能…。新しい薄毛の治療法ですか?

『禿髪』が苗字で『樹機能』が名前だ。覚えておけ!
禿髪樹機能は、涼州刺史蘇愉を倒し、またたくまに涼州を制圧しました。
これに対して、晋国は蜀攻略戦で大功のあった秦州刺史胡烈を派遣します。

もはや涼州は我らのもの。か弱い人間どもが来るところではない!

なんて大軍だ! 応援はまだか
禿髪樹機能は、胡烈を撃破。涼州の混乱は決定的となりました。
司馬炎は、都督の司馬亮を更迭。胡烈の援軍に行かなかった劉旂を処断します。
代わりに石鑒を都督秦州諸軍事、杜預を秦州刺史、牽弘を涼州刺史に任命し、涼州の奪還を図りました。
しかし、石鑒と杜預は、以前から犬猿の仲で、ここでも仲間割れしてしまいます。

敵の勢いが強すぎる。攻めるのは春まで待ちましょう

俺たちは遊びに来たんじゃねーぞ! 帰れ帰れ
上官の命令に逆らった杜預は更迭。しかし、石鑒も嘘の戦功を報告したとして更迭させられます。

また来たか、か弱い者たちよ!

とても我が軍だけでは勝てん!
一人残った涼州刺史牽弘は、あえなく禿髪樹機能に敗れました。
司馬炎は、汝南王の司馬駿を鎮西大将軍に任命。
杜預の献策のとおり、数年にわたって殖産につとめ、敵の勢いが落ちるのを待ちました。

いまだ、反撃のチャンス!

こんな猛将がいたとは…!
咸寧3年(277年)晋の猛将文鴦により禿髪樹機能は敗北。禿髪樹機能は降伏し、子供を人質として差し出しました。

これだけ痛めつければ、もう逆らわないだろう
禿髪樹機能を退治した司馬駿は扶風王に栄転。文鴦も転任しました。
しかし、いまだ涼州は安定しておらず、反乱の芽は摘むことはできませんでした。

ククク…、力は強いが、おつむはイマイチのようだな
馬隆と司馬炎
咸寧4年(278年)禿髪樹機能は再び、晋の国に反乱を企てました。
これに涼州刺史楊欣が立ち向かいましたが、馬隆は楊欣が敗れると予言します。

楊欣は、敦煌の令狐宏を排除したため、怨嗟の声が上がっています

和を失ってるのなら、楊欣は必ず敗れる
馬隆の言葉通り、楊欣は敗れて、涼州はまた混乱に陥ります。
シルクロードの交易が盛んになってきたこの時代、禿髪樹機能の害は呉や蜀より甚だしいといわれるほどでした。

誰か樹機能を打ち取る勇者はおらぬか?

三千の兵を与えてくだされば、必ずや樹機能を打ち取ります!

騙されてはなりません。三千人で勝てるはずがありません

では、賈充様が行かれますか?

ぬぬぬ…(遠征軍を一度断ったので反論できない)
司馬炎は重臣の反対を押し切って、馬隆を武威太守に任命しました。
馬隆は身分や出自を問わず、36鈞(約240㎏)の弩(クロスボウ)、4鈞(約27㎏)の弓を引ける者に限って兵士を集め、3500人の兵を選抜しました。

恐れながら、武器庫の役人が古い武器しか与えてくれません

それでは勝てるものも勝てん。最高の武器防具を与えよう!
司馬炎の計らいで最新の武具と三年分の食料を手に入れることに成功しました。

八陣図を実践するには、蜀の技術を取り入れた最新の武器や防具が必要だったんだ
馬隆VS樹機能~炸裂、車蒙陣!
馬隆は軍備を整えると温水を西に渡り、涼州に入りました。

また懲りずに漢人がやってきた。殲滅してこい!

任せてください!
禿髪樹機能は、数万の大軍で要害にこもって前方を遮り、さらに馬隆の背後に伏兵を送りました。
前後からの挟み撃ちに、馬隆は八陣図にのっとり偏箱車および鹿角車を準備します。

ここで八陣図のひとつ車蒙陣だ!

出た、八陣図! 一体どういう兵法なの?
陳勰先生の車蒙陣の解説

では、簡単に八陣図のひとつ車蒙陣を解説します

はい、お願いします
車蒙陣とは偏箱車と鹿角車の二つの戦車を利用した、対騎兵戦術です。
偏箱車は側面に防御壁を立て、盾とした車です。

偏箱車は、側面に防御壁を取り付けた車で、身を守りつつ弩や弓で応戦する仕様です


すげー! まるで装甲車ですね

しかも馬隆軍の強弓は敵の射程外から当てることができる上、弩は諸葛亮の連弩を使用しています

諸葛弩っていうと『15秒で10本の矢を放つことができ、すぐに弾倉は再装填される』という古代のマシンガンみたいな兵器ですね!

さらに上からの攻撃にも備え、天井に装甲を加えた偏箱車・改もあります


なんて用意周到な…
もう一方の鹿角車は、前面に戈や戟といった武器を取り付けた車です。

攻めに転じる時には鹿角車です。この車は前面をハリネズミのように武装して、敵を駆逐します


やばいの出てきた((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

偏箱車と鹿角車。この二つがあれば、騎兵に対して、まず負けません

はい…。樹機能も焦っただろうな
かくして馬隆は、圧倒的火力差で禿髪樹機能の軍を次々と退治していきます。
最終決戦! 磁石大作戦
連敗の続く禿髪樹機能軍は、車蒙陣の弱点を探しました。
その結果、馬隆軍の弓すらも弾く鉄の鎧を着るという結論に達します。

鋼鉄の鎧ならば敵の強弓も効かん! 車蒙陣、破れたり

ヒャッハー! ぬっころしてやる
禿髪樹機能軍が、人も馬も鉄の鎧で武装したという情報を手に入れた馬隆は、すぐに対策を立てます。

こんなこともあろうかと磁鉄鉱を準備してあります

磁鉄鉱? 磁石のことですか?
馬隆は狭隘な場所に磁鉄鉱(磁石)を設置。自軍は革の鎧を着て、禿髪樹機能を誘い込みます。

うぉー、全然動けない!

今です! 樹機能の本隊を一掃します
鉄の鎧を着た禿髪樹機能の軍が磁力で動きの取れない中、革の鎧の馬隆軍はすいすい移動して敵を討ち取ります。

なぜ馬隆軍だけ動ける! こいつは神か…!
かくして禿髪樹機能本隊は壊滅。反乱軍の崩壊が始まります。
仲間割れの末、禿髪樹機能も討ち取られ、ついに馬隆は涼州を平定しました。

皆の言う通りしてたら、涼州や秦州は失われていた。馬隆を信じてよかった!

ありがとうございます、光栄です
その後、馬隆は涼州を復興させるため馬隆を平虜護軍・西平太守隴右を拝命。
涼州を含む隴右を守り続け、馬隆の生きている間、この地に平穏が保たれたのでした。

どうでしたか? 私の八陣図は?

思ってたよりもすごかったです! なんで諸葛亮さんは北伐とかで使わなかったんですか?

予算的に厳しかったのです。あと、皆さん、ああいった物がお嫌いなようで…

ダサい! カッコ悪い

品位に欠ける!

アレで曹操軍と戦うのは、ちょっと勘弁だな…

天才って、理解されないんだな…

つづく。
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