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【三国志著者】陳寿は諸葛亮を嫌いだった? 蜀漢では不遇でも、西晋ではリア充だった陳寿の生涯!

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今回は、今も残る歴史書『三国志』を記した陳寿ちんじゅの紹介です。

三国志のことなら、何でも知ってる陳寿さん。一体、どんな人だったのかな?

干宝
干宝

晋の国の歴史書『晋書』で、陳寿は文章は上手だけど、人としてはイマイチという評価ですね

まあ、天才って、そういうもんだよね。『史記』を書いた司馬遷だって余計なこと言って、チ〇コ切られてるし…

干宝
干宝

いえ、陳寿は不遇ではありません。むしろ晋の世では、リア充といって良いのではないでしょうか!

え! 陳寿って、リア充なの?!

干宝
干宝

しかも、巧妙に、嘘を織り込んでいます! そこも含めて見てみましょう

 蜀漢と西晋の二つの国に仕えた陳寿が、いかにして歴史書『三国志』を記し、その地位を確立していったのか。さらに陳寿が、いかにして魏志倭人伝を書いたのかを紹介する内容です。

陳寿の生涯(晋書)

 陳寿(承祚)は、諸葛亮しょかつりょうが亡くなったころ、蜀の国の巴西郡で生まれました。

 陳寿は同じ郡の学者である譙周しょうしゅうに学び、子游や子夏しゆう しか孔子こうしの弟子で文学が得意だった)のようであると言われました。

譙周
譙周

陳寿は学問の才能はあるが、きっと災難に巻き込まれようぞ

黄皓
黄皓

陳寿は仕事はできないし、文句は言うし、最悪ですよ!

 その後、蜀の官僚となりますが、当時蜀の政界を仕切っていた宦官の黄皓こうこうに睨まれ、仕事をクビになります。

 しかし、蜀の国が亡びると、譙周門下の兄弟子羅憲らけんや皇帝の側近張華ちょうかの推薦をうけて、晋の国に仕えることとなりました。

羅憲
羅憲

私の弟弟子である陳寿は、物書きとして右に出る者がおりません!

張華
張華

なるほど。では、晋の国の歴史書を管理してもらうか

 この時に書いた本を晋の皇帝司馬炎しばえんが読み、大絶賛!

 三国統一後、陳寿は『三国志』を完成。その素晴らしさに、同じような本を書いていた夏侯湛かこうたんは、自分の本を破り捨てたと言われます。

司馬炎
司馬炎

陳寿という男、簡潔で内容のある文章で素晴らしい!

夏侯湛
夏侯湛

僕も『魏書』を書いていたけど、レベルが違う!

 太康3年(282年)恩人である張華の失脚で左遷されますが、後に太子中庶子(皇太子の側近)に返り咲きます。

 『晋書』によると、元康7年(297年)惜しまれつつ、65歳で逝去しました。

確かにこうしてみると、陳寿は蜀が滅んでからの方が上手くいってるかも

干宝
干宝

元々、陳寿は蜀であまり認められませんでした。その原因を作った諸葛亮やその子諸葛瞻に対しても、あまり良い評価をしていません

なんだって! 陳寿は諸葛亮を悪く言ってるの?

干宝
干宝

あまり性格の良い人ではなかったようですね。その辺も含めて次の章で…

陳寿と諸葛亮の微妙な関係

 建興5年(227年)陳寿の父は、諸葛亮が第一次北伐を実施した際、蜀の将軍馬謖ばしょくの副官でした。

 馬謖は諸葛亮の側近でしたが、諸葛亮の指示に背いて惨敗し、軍律違反で処刑されます。

 副官だった陳寿の父も、髠刑(髪を切る刑)に処され、官をクビになりました。

諸葛亮
諸葛亮

敗戦の責任は、馬謖だけに帰するものではありません

 また、陳寿自身も諸葛亮の子諸葛瞻しょかつせんに仕え、馬鹿にされたと言われます。

諸葛瞻
諸葛瞻

陳寿はイマイチだって、黄皓が言ったんだよね

亮の将軍としての計略は優れたものではなく、敵に対応できる軍才はない

『晋書』陳寿伝

瞻はただ書が上手いだけで、名声がその実力を越えている

『晋書』陳寿伝
干宝
干宝

このように陳寿は、父と自分の恨みから、諸葛亮と諸葛瞻の父子を認めていません

でも、陳寿は諸葛亮の本も書いたんでしょ? 少なくとも諸葛亮は尊敬していたんじゃないの

干宝
干宝

陳寿が諸葛亮を表面上、良く書いたのは、時の皇帝である司馬炎が大の諸葛亮ファンだったからだと思いますね

そ、そうなんだ…

豆知識

司馬炎は、諸葛亮のような私心のない大臣を欲しがりましたが、たとえ諸葛亮がいても司馬炎では使いこなせないと家臣にたしなめられています。

陳寿と魏志倭人伝

陳寿
陳寿

まったく…。ひどい言われようですね

あ、陳寿さん!

陳寿
陳寿

私が陰で、どれだけ蜀を贔屓していたのか知らないわけじゃないでしょ?

 陳寿は、晋の国が魏の国を引き継いだ関係上、魏の国を正統な王朝としていました。

 しかし、魏の曹操を『太祖』と書き、蜀の劉備を『前主』と書き、呉の孫権を『権』と呼び捨てにしています。陳寿は魏を正統としつつも、蜀も密かに称賛しているのです。

干宝
干宝

しかし、曹髦の一件を、私は良いとは思いませんね

陳寿
陳寿

あれは、しょうがないでしょ! 司馬昭がヤってないとは書いてない!

 魏国第四代皇帝曹髦は、司馬昭(司馬炎の父)に弑逆されて亡くなりました。

 ですが、陳寿は亡くなった理由をきちんと書いておらず、皇帝の父である司馬昭に遠慮したと言われます。

干宝
干宝

では、魏志倭人伝の件は? 未だに日本人は困ってますよ

陳寿
陳寿

あれは私のせいじゃない! 先行の資料がそうなってただけ!

あの、二人とも落ち着いてください…。ところで、魏志倭人伝の件って何ですか?

 魏志倭人伝こと、三国志『魏書』烏丸鮮卑東夷伝倭人条の中で、陳寿は古代日本のことを描きました。

 しかし、陳寿の記述どおりに海を渡ると、日本列島を越えた先に目的地の邪馬台国があるため、邪馬台国がどこにあるのか分からないというのが論争の元になっています。

陳寿
陳寿

私が、晋国の祖である司馬懿を称えるために、わざと邪馬台国を大きく遠くに書いたと言う人がいるんですよ

 晋の国の礎を築いた司馬懿しばいが、遼東半島にいた公孫淵こうそんえんを滅ぼしたため、邪馬台国は魏の国にやってくることができました。

 つまり、司馬懿のおかげで、東の海にある邪馬台国という大国が臣従してきたんだ! やったね、司馬懿! さすが、仲達! と、褒めるために邪馬台国の位置がずれたという説があります。

干宝
干宝

魏志倭人伝のような資料を後世に残すというのは、罪深い所業ですよ

陳寿
陳寿

私が倭の国に行った訳じゃないんですから、少々の誤差は仕方ないでしょ!

干宝
干宝

おかげで邪馬台国がムー大陸にあったという説まで出てるんですよ。どう責任をとるんですか!

陳寿
陳寿

勝手に文章を曲解しているだけです! 責任など取りません

ああ、ケンカしてしまった。こりゃ、収集がつかないな…

 邪馬台国の説は百花繚乱なので、今回はここで終わります。

参考資料・参考URL

六朝文人伝 : 『晋書』(巻八十二)陳寿伝 佐藤利行

陳寿の処世と『三国志』 田中靖彦

魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国 (中公新書) [ 渡辺義浩 ]

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